FHOTO STORY


猫撮影に際して、自分への約束事が3つあります。

1、「猫と対等であること」

同じ動物として向き合う姿勢が必要だと思います。

撮影時の目線は、猫の目線が基本です。


2、「猫の都合に合わせること」

猫の都合に合わせてこそ、真の素顔が撮れると思います。

撮影者の都合に合わせることは、猫にストレスを与えると思いますし

絶対に自然な表情は撮れないと思います。


3、「猫の尊厳を守ること」

感動を与えてくれる猫たち。撮るだけでなく、その尊厳を守りたい。

自分に出来る範囲で猫だすけを実行しています。

例えば、里親探しや病気の治療など。

また、交通事故死などで命を絶たれた猫たちを放置しません。

土に還れば他の生物の糧となり、無駄な死では無くなると思うのです。

写真を通じて、命の大切さを伝えられたら、と思っています。



「鞆の浦」のかけがえの無い僕の友達を紹介します。

 僕が本格的に猫を撮るきっかけとなった1枚。色彩・構図が良い、と多くの方々に評価された。スナップ写真を撮影する為に訪れた「鞆の浦」の街角で偶然出会ったのだが、この後、数年間顔を合わせることとなる。
 以前は子猫と一緒に過ごしている場面を度々見かけたのだが、現在は姿を見ることはない。
 僕の現時点での代表作。「富士フィルム写真コンテスト」にて4年目にして初入賞した。
 僕にとっての標準レンズである、60mmマクロレンズでの撮影中に、タイミング良くあくびをしてくれた。入賞の通知とイリコを持って、路地裏にお礼に行ったが、この猫はその後、しばらくして姿を見かけなくなった。
 初期の作品。珍しく望遠ズームを使っている。薄暗い路地だが、三脚を使わず手持ちで撮るべくISO400のフィルムを携えて、この路地裏に向かった。彼が登った15cm角の木材がまるで “お立ち台” のように思えた。次の瞬間、その上で見事なあくびを披露してくれた。
 この場所は、当時は7〜8匹以上が暮らしていたが現在は半数以下に減っている。被写体の彼も、今はいない。
 上記の路地裏と同じ場所である。生後2ヶ月程の子猫だった。キャットフードのオマケのネズミ型の玩具を与えると、しばらくじゃれてくれた。そんな遊び盛りの子猫を眺めていると、時が経つのも忘れてしまう。
 車はもちろん、自転車も滅多に通らない路地裏。彼らにとって安全な場所のひとつである。
この子猫が育って行く過程を見守りたかったが、その願いは届かなかった。
 小高い丘の上で出会った猫。毛は真っ白く、ややオッズアイ的な目で、とても美しい子だった。付近の家で飼われていたが、数ヵ月後にこの場所を訪れた際、丘の下の道路で車にはねられて他界した、と飼い主さんが教えてくれた。
 この丘へ通じる坂道は、車は通ることが出来ない。日当たりも良く、猫たちとって過ごしやすい場所である。
 僕のポストカードの中でも、特に人気の高い作品。漁港から路地へ入り、猫がいそうな場所を求めて歩くと、強い視線を感じた。それもそのはずだ。同じ目つきをした三兄弟が、初対面のカメラを提げた怪しげな男(僕)を一斉に見つめていたのだから。 この三匹は付近の住人から可愛がられているようで、それぞれに名前が付いていた。
 一番年上の “太郎” はある日を境に姿を消し、“三兄弟” の写真はこれが最初で最後となった。
 渡船場の住人だった、通称 “二等兵”(のらくろ の模様に似ている事から、こう名付けられた)。雄でありながら、非常に大人しく人懐こい性格で、観光客にも可愛がられていた。僕自身、彼を撮影する時は「対話」をするように、一緒にじゃれ合いながらシャッターを切った。
※以下、伝聞。
 2004年春、病気の為か衰弱して、餌も食べられなくなった。その数日後、可愛がってくれた渡船場の方々一人ひとりに別れを告げて、繁みに消えて行った。
 漁港で生まれた子。秋に生を受けると、「冬を越す」という試練が待っている。この漁港では、蛸や蝦蛄を茹でる為の竈が点々と見られる。明け方に撮影に行くと、その竈の前で暖を取っていた。時には近付き過ぎて、毛を焦がすこともあったと聞く。
 瀬戸内の温暖な気候とはいえ、子猫たちにとって冬の寒さは厳しい。この子も、春の訪れを心待ちにしていたはずだが、冬を越すことが出来なかった。

 渡船場付近で生活していた。生まれ付き視力の弱い子だった。近辺の方々に可愛がられていたが、交通事故に合う。瀕死の状態になりながらも、可愛がってくれた方々へ逢いに向かったとのこと。警戒しがちであったが、青い瞳で見つめてくれたことを忘れない。
 子猫の時から被写体となってくれた子。なかなか懐かなかったが、何度も顔を合わせる事によって、少しずつ近寄れるようになった。原因は不明だが、首が曲がってしまい、常に首をかしげたようになってしまった。2004年の冬になりかけた頃、姿を消した。多くの作品を撮らせてくれて、ありがとう。
 通称「猫小路」、この通りは車も来ない静かな場所である。ブロック塀のすきまは、猫たちにとって格好の遊び場だ。この場所で多くの作品が生まれたが、改築され、この場所はもう無い。「写真は記録」ということを痛感する。
 この子猫とは、2003年の晩秋に出会った。毛の模様が少し変わっていて、遠くからでもすぐに区別が付いた。この作品を撮ったのは、とても寒い朝だった。他の猫と同様に、竈の火や魚屋さんの電気ストーブで暖を取っていた。親猫と寄り添う姿が微笑ましく、夢中でシャッターを切った。
 しかし、その一週間後、漁港の波打ち際に一匹の子猫が浮いていた。見覚えのある毛の模様・・・。間違い無くこの子だった。僕は声にならない叫びを上げた。
 今は、生まれた育ったこの漁港に眠っている。素敵な出逢いをありがとう。
 通称「茶々丸」。写真の通り“三ツ星”である。このような猫は後にも先にも彼だけである。痩せたり風邪を引いたり、でも逞しく生きている。人懐こく観光客にも人気が高い。今後も彼の猫生(人生)を記録していく。

 以下、後日談・・・
残念ながら、2005年2月中旬に病気の為この世を去った。沢山の思い出と、沢山の作品を撮らせてくれてありがとう。もし、生まれ変わる事が出来たなら、また鞆の浦で逢おうね・・・。
 丘の上に住んでいた子(下)。とても可愛らしい子で、他の猫たちにも可愛がられていた。2003年の冬、鼻水と目やにが酷く、冬を越せないかと思っていたが、他の猫たちがまるで「おむすび」のようにこの子を包み込んでいた。その後、近所の方に引き取られていった。
 「権兵衛さん」と名付けられ、大変可愛がられていたが、2004年の夏、体調を崩して痩せ細ってしまった。おなかに虫がいる様子だったので、駆虫薬を投与。しかし回復せず、三日後に他界した。この子のつぶらな瞳が忘れられない。元気があるうちに対処出来たら、と悔やまれる。「猫びより」2004春号「鞆の浦」にも登場している。
 鞆の浦でも、特に好きだった子。通称「ヤー君」。出逢った頃から目が爛れていて、顔を合わす度に目やにを拭き目薬を点していたが、完治はしなかった。漁師さんよりこの子の過去を聞き、憤慨した。なんと、子猫の頃に瞬間接着剤で目を塞がれていたとのこと。子供の悪戯らしい。
 ある時、右の頬が異常に腫れて、痩せ細っていたので、獣医へ連れて行った。化膿していたようで切開をしてもらう。その際、獣医さんに「この子の名前は?」と聞かれ、僕は「逢った時には、“よぉ!”とか“やぁ!”とか声を掛けます。」と答えた。そしてその時から「ヤー君」と命名されたのである。
 僕自身、落ち込んだ時などは、彼の顔を見て癒されたものである。僕のそばから離れようとせず、黙って顔を見上げてくれた。
 しかし、別れの時はやって来た。いつものように彼のいる漁港に行き、彼の名を呼んだ。いつもなら、寝ていてもどこにいても飛んでくるのに・・・。おかしい・・・。探せど見つからず、途方にくれていた時、顔馴染みのおじさんが通り掛った。「兄ちゃん、4・5日前に猫が一匹死んだよ。」と・・。僕は胸騒ぎがして「どの猫ですか?」と尋ねると、「目の悪かった猫だよ」とのこと。あまりのショックでその場に立ち尽くしてしまった。僕が最後に彼に逢ったのは、1週間前の事だった。いつものように目やにを拭くと、気持ち良さそうに喉を鳴らしていた。
 今でも、僕の携帯電話の待ち受け画像は「ヤー君」である。彼の事は忘れない。
 
 僕の代表作の一つ、「鞆の浦の犬猫写真」を撮らせて下さったお宅の三毛猫で、18年生きた。いつもは日当たりの良い窓際にいるのだが、この作品を撮影した日は外に出ていた。この日は無性にこの子を撮りたくて、日が暮れるまで撮影を続けた。
 翌日、鞆の浦を訪れた時、飼い主の方が泣きながらこの子が死んだ事を話して下さった。昨日の夜に死んだのよ・・・と。僕は付近の山道から花を手折り、この子の亡骸に添えた。
 数日後、現像が終わって僕の手元にポジ・フィルムが帰ってきたが、仲の良かった犬「チビ」に別れの挨拶をしているようにも見える。猫生(人生)最後の写真を撮らせてくれてありがとう。
 神社に住み付いていた、ふわふわな毛の兄弟。野良猫とは思えないほど、気品に満ちていた。
 2004年の秋、僕に一通のメールが届いた。「この兄弟を飼いたいのですが、よろしいでしょうか?」と。僕の写真展に来て下さった方からだった。僕の返事は「冬が来る前に連れて帰ってあげて下さい」だった。光栄なことに、茶色い子の名付け親にならせていただいた。
 今現在、愛情一杯に育てられ、幸せな日々を送っている。このような猫が今後も増えることを願いたい。
 漁港の住人。三毛でふさふさな毛の大変珍しい子だった。通称「ふさふさちゃん」気ままな性格で、それがまた魅力的だった。漁師さんや、地域の子供たちにも可愛がられていたが、2004年5月頃から姿を見掛けなくなった。大人しく、大変可愛い容姿だったので、どなたかが連れて帰って、飼ってくれているのだろう、と信じていたが、現実はそうでは無かった。
 事実を聞かされたのはこの年の秋。漁師さんに何気なくこの子の事を聞いてみた。そして、帰ってきた返事は、「半年くらい前、朝早く港に来たらここで死んでたよ」最悪の答えだった。しかし、僕を含めた多くの方々の被写体となって、生きた証を残している。
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 この猫は幸せな猫だ。昨年(平成16年)の初夏、通称「グリーンライン」と呼ばれる山道で子供たちに保護された。
 現在は鞆の浦の「田渕屋」の看板猫「梅太郎」となっている。鼻の横の黒い模様がトレードマークで、いつもびっくりしたような丸い目が可愛い。今後も多くの作品を撮らせて欲しい。

〜追記〜

 別れは唐突にやって来た。猫撮り屋の「田渕屋」での写真展の会期中、平成17年7月24日午前10時頃、店の目の前で車に撥ねられて永眠。ねえ、梅ちゃん・・・。1年と少しの間だったけど、沢山の思い出をありがとう・・・。
 路地裏で出会った兄弟。まだ小さく、常に寄り添っていた。この路地裏は薄暗く車の通りも皆無である。たらいの中で寄り添う姿がなんとも可愛いらしかった。
 しかし、今現在この兄弟を見かけることは無い。
 渡船場で可愛がられていた子。良く遊び、やんちゃな子だった。一度は観光客に貰われていくことになりそうだったのだが、雌であるという理由でご破算となった。 再び渡船場で暮らしていたが、別れはあまりにも唐突だった。「あんなに元気だったのに、なんで?」と言いたかった。この作品を撮影した翌々週に、突然この世を去った。誰もが「眠っている」と感じるような表情だったという。
 2004年は台風が立て続けに訪れた年だった。漁港に住む猫たちにとっても、大きな脅威となっていた。トロ箱からひょっこり顔を出してくれたり、とても協力的で撮りやすい被写体だったが、台風の翌日はこの場所にはいなかった。その後も姿を見ていない。
   渡船場に住み付いていた。通称 「トラ」。人懐こく、頭の良い猫だった。一時期、鼻水・目やにが酷くなり、やつれていたが、観光客にも可愛がられて次第に回復していった。2004初秋、縄張り争いに敗れたのか、この港から姿を消した。住処を替えたのであろうか?今後も行方を追う。
 2004年の晩秋に出会った子たち。漁港にいたのだが、母親らしき猫がいない。しかし、雄の黒猫がこの子たちを可愛がっていた。
 天気の良い暖かい日に、竈を遊び場にしていた姿が愛らしかったが、1週間後、この漁港を訪れたら、白黒の子がいなかった。漁師さんより、死んだ事を告げられる。その後、約2週間後に三毛の子も姿を消していた。
 なんともやるせない出来事だった。

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